第551回:日の当たらない名車に“第2の人生”を!
「フィアット127」を乗りこなす若者に密着

2018.04.27 マッキナ あらモーダ!

往年のカー・オブ・ザ・イヤーなのに

大衆車とは、悲しいものである。

現役時代は毎日人の役にたっているが、よほどデザイン的に特異だったり、かなりのロングセラーだったりしなければ、一般人の記憶から消えてゆく。

イタリアを代表する大衆車といえば先代「フィアット500」、そして「600」である。その2台は、新車時代を生きていない若者でも一般知識として知っている。いっぽうで他のイタリア製大衆車は、どうだ。世代の変化もあって、どんどん忘れられている。

その代表的な一台が「フィアット127」である。1971年に誕生した127は、ダンテ・ジアコーザ式前輪駆動を採用していた。これはすでにグループ傘下のアウトビアンキにおいて、1964年の「プリムラ」と1969年の「A112」で信頼性を確認済みの技術であった。サスペンションは四輪独立だった。

ボディーをデザインしたのは、ピオ・マンズーという人物である。20世紀のイタリアを代表する彫刻家のひとり、ジャコモ・マンズーの息子として、ムッソリーニ政権下の1939年にベルガモで生まれた彼は、ドイツ・ウルムの工科大学を卒業した。

その後、イタリアで工業デザイナーとして活躍。デサイナーズ・ショップにおける定番で、今日アレッシィが生産している置き時計「クロノタイム」は、彼の代表作である。

しかし1969年、まさに127のモックアップのプレゼンテーションを行うためトリノへと向かう途中、自ら運転していたクルマでの事故により、わずか30歳でこの世を去っている。

フィアット127は発表翌年の1972年に、欧州カー・オブ・ザ・イヤーに選定された。その後2回のフェイスリフトを経ると同時に、さまざまなバリエーションを生みながら、1987年に「ウーノ」にバトンタッチするまで、16年にわたるロングセラーとなった。

127の前輪駆動レイアウトや2ボックスのデザインは、1970年代に多くの大衆車の範となった。しかし、本国イタリアでは500や600の存在があまりに大きすぎたこともあり、127はもはや人々の記憶から失われつつある。

「フィアット127」。これは1971~1977年にかけて販売された初期型のファクトリーフォト。
「フィアット127」。これは1971~1977年にかけて販売された初期型のファクトリーフォト。拡大
同じく新車当時の広報写真から。トリノのスペルガ聖堂をバックに。
同じく新車当時の広報写真から。トリノのスペルガ聖堂をバックに。拡大
後方に見えるのはフィアットが第2次大戦前、トリノ県セストリエレに開発したスキーリゾート。
後方に見えるのはフィアットが第2次大戦前、トリノ県セストリエレに開発したスキーリゾート。拡大
筆者画。ピオ・マンズーがデザインした置き時計「クロノタイム」。
筆者画。ピオ・マンズーがデザインした置き時計「クロノタイム」。拡大
大矢 アキオ

大矢 アキオ

コラムニスト。国立音楽大学ヴァイオリン専攻卒にして、二玄社『SUPER CG』元編集記者、そしてイタリア在住21年と脈絡なき人生を歩んできたものの、おかげで妙に顔が広い。今日、日本を代表するイタリア文化コメンテーターとして執筆活動に携わると共に、NHKラジオフランス語テキストでも活躍中。10年以上にわたるNHK『ラジオ深夜便』レギュラーリポーター、FM横浜『ザ・モーターウィークリー』季節ゲストなど、ラジオでも奮闘している。、(ともに二玄社)、、(ともに光人社)、(NRMパブリッシング)など数々の著書・訳書あり。

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